萩原高の辛口エッセイ:鳥の眼犬の眼笑鬼の眼8(2002.8/9)




 日曜日の朝、サンフランシスコからの歌番組で目が覚めた。
 正確に言うと、ベッドの頭にあるラジオから流れてきたNHKのテレビ番組(「ラジオで聞く、テレビCM」については、また別 の機会に書きたい)である。
 それは「のど自慢・イン・サンフランシスコ」(2002年8月4日AM10:10)再放送版だった。 その歌は、シリコンバレーで会社を立ち上げたという男性二人の「SAY YES」から始まった。張りがあって、実に巧かった。 横になって聞いていては勿体ないなと思わせた。急いだ。居間のTVで顔が見たくなった。彼らは、最後まで歌えた。鐘三つが鳴った。そう、御想像の通 り、陽が高くなるまで寝ていたという次第。言い訳を探せば、1週間ぶりにフィットネスジムで汗を流し、快い疲れに熟睡してしまった?からである。 TVの画面からは、いつもと異なった明るさが出ていた。いや、言葉を正確に使えば、登場人物が活き活きとして、嬉しさがみなぎっていた。
 あの9・11、NY貿易センタービルの中から階段を駆け降りたビジネスマンが元気に歌った。当時、結婚したばかりの愛妻を、彼はその時、日本に残していたと言う。生きていたという晴れやかな顔に思わず拍手したくなった。浴衣姿の奥さん達が「サンフランシスコ日本町音頭」という聞きなれない歌を踊りながら歌った。4月にあのジャパンタウンで50以上の団体が参加する桜祭りの音頭らしい。(あの、というのは、懐かしかったからだ。 サンフランシスコ人には"J-town"、日本人同志では「ジャパセン」と言われるジャパンタウン。あそこの日系スーパーには、驚くほどに日 本食材があったと喜んだものだ。 後藤久美子、後のゴクミがまだ幼い頃で、1ヶ月近く彼女の母親同伴のCMロケだった。 あの周辺は出所した者を受け入れると言われるピンクハウスがあったり、特に南側は観光客が 不用意に一歩外に出ると、余り安全とは言い難いところである。事実、歩行者カップルが集団の暴漢に襲われるのを映画のロケシーンのように、ホテルの窓から目撃してしまったのである。)  話をTV画面を戻そう。ロッテオリオンズで活躍したレオンの娘姉妹も流暢な日本語で歌った。自分の番号を告げて次々にマイクに向かってくる。題名タイトルは忘れてしまったが、留学生だった頃の日本のホストファミリーに聞かせたいと歌う女性には、ほろりとさせられた(長男の世話になった、オハイオ・デイトンのホストファミリーを思い浮かべたからだ)。
 中年の男性が歌う「五木の子守歌」。歌いこんでいるのが解る。閉じた瞼の裏に何を見ているのだろうか。三味線を手にした松村和子の「ロック演歌」「帰ってこいよ」を選曲したのは、日本の両親の口癖を思い出して歌ったという女性。祭文字の団扇を手に白い割烹着姿で歌う若い父親は、辛くなると歌っているという北島三郎の「帰ろかな」。「帰ろかな、帰るのよそうかな…」の節回しと、その表情は、見ていて痛かった。望郷の想いが解る。胸に去来する様々な想い、沸き上がる気持ちの高まり。聞かされているうちに涙が眼に溜まってきた。 スーパードライのロケでメキシコのユカタン半島、メリダの奥に入った夜、カメラマン助手が日本から持ってきたカセットを流した。摩訶不思議なマヤ文化の異空間で耳にした、あの時の美空ひばり。不思議な声が異国のホテルの部屋に響いた。あの時は、正直、日本人の螓を感じたものだ。余り好きではなかったひばりの歌が、文字通 り、心に沁みた。みそ汁の匂いがしたとでも言おうか、未だに忘れられないでいる。谷村「昴」よりも、ひばりのこぶしだった。ロケの1本が撮了し、一旦メキシコシテイに戻ったとき、元柔道のオリンピック選手だった通 訳に カラオケ屋を探してもらった。飲み屋では、スタッフもノビー落合も歌謡曲を何曲も歌ったものだ。永く米国に居た彼を日本へ帰らせる気にさせたのは、実は「無法松の一生」という1曲の演歌だった。

 日本人のアイデンティティとは何だろうかと。  
 国をシンボリックカラーで考えてみると、W杯の時のブルーは果 たして日本だったのだろうか。参照)それに比べて、韓国代表のスタンドは見事に唐辛子のレッドで染まった。オーストラリアと言えばグリーン。アメリカはいつもレッド&ブルー。つい先頃、オリンピック出場が決まった我が国の女子ソフトボールチームのユニホームは赤だ(自分達がピクシーの居た名古屋グランパスに提案したチームカラーも、熱烈のレッドだった。「赤鯱軍団」)。日米野球のジャパンチームのユニフォームカラーは、ダークブルーだ。こうなると、色で国を想うのは何だろうか。白地に赤く〜「日の丸」は、歌の中だけであろうか。世界にいる在留邦人会は、どんな色を国のカラーにしているのだろうか。中心に球体を描いている国旗は、韓国とパラオ(ブルーバックにイエロー)とバングラディッシュ(グリーンバックにレッド)だが。ついでに言えば、外国で通 訳をしてる日本人は、押し並べて実に日本語がきれいである。広告屋の粗っぽい言葉が恥ずかしくなるのを各国で屡々体験した。理由を聞けば簡単だった。「重要な場に出る通 訳は、日本を代表して来られる方に相対しているからですよ」と。旅行者の通 訳は、どうであろうか。思い出せばそう、今春バンコックで案内してくれたタイ人も日本語がきれいだった。 米国で、ビジネスマンのたまり場で酌をする自称留学生の女性のことが、ふと出てきた。いわゆる、単身赴任の日本人が飲む然程高くはないクラブバーである。日本語が話せるからスタッフと出かけることになる。彼女達曰く、帰るに帰れないという。 英語がぺらぺらになったんだろ!と、日本の両親が国際電話の向こうで、声を弾ませながら聞いてくるから、帰れないと言う。語学学校への金も尽きて、日本の商社マンが集まるところでバイトしていると、安心してしまうという。成り行きで不倫生活に滑り込んでしまうの、と哀しそうに笑ったバーの風景が出てきた。

 歌は続いていた。妊娠5ヶ月を知らない時期に応募していたという女性が歌うことになって決めたのか「お母さん」が、丁寧に歌われた。 軍曹だった彼と海を渡って結婚50年のトープ巴さんは、夫の見守る中、「私の大事な旦那様」を歌った。しっかりした日本語。ハワイより遠いサンフランシスコでは、想いも重いだろう。心の中で一瞬モノクロの画面 に変わっていた。涙が出てくる。「胸に詰まる」とマイクをもって盛んに言う北島三郎の気持ちが正直だ。そうだろう。見ている僕が涙腺から漏れてくるものがあるのだから。人間模様を見させられている。 日本のテレビに出る。そう、自分がテレビ画面に出られるチャンス。映画「のど自慢」(監督・井筒和幸)。室井滋が主演で、のど自慢に出るための悲喜こもごものが・・・。残念ながらあの映画は見逃してしまったが。なぜか、私には、「鐘の鳴る丘」辺りの時代が甦る。「のど自慢」という音色は、蓄音機の横にあった古いラジオから流れてくる。歌というものが、世の中を明るくさせた、「リンゴの歌」のような感慨が…。そういえば、苦手な算盤学校に通 う時、いつも、笠置シズ子のブギが商店から聞こえてきていた。西川屋(スーパーマーケット、ユニーの最初の店)を通 る時だった。 私にとっての英語の歌は、タイプライターだった。タイプを打たせてもらうために親戚 の叔父の事務所まで、築地口から堀田までの距離を自転車で何度も走ったものである。当時馬珍しかったタイプライターの英文字の紙を風呂の中に持ち込んでは声を張り上げ、濡れたらまた乾かした。それが、「慕情」と「ライフルと愛馬」だった。

 「NHKのど自慢・イン・サンフランシスコ」の番組は中盤になっていた。 ゲスト審査員の北島三郎が何度も感激して口にする。「今までの内で、一番いいんじゃあない、今日ののど自慢、ねえ。」今回は生中継のため、夜の8時15分に開演したらしい。 7/14の中継当日、あの堀江賢一はヨットの中で、サンフランシスコを目指していた。 北西400kmの沖合から元気な彼が会場に拡声された。彼の声は続く。独りぼっちの海原で40年前歌っていた歌を今度も歌ってきたと言う。「上を向いて歩こう」だった。その歌を出演者が歌った。堀江に貴重な電池を使わせることになるので、衛星から電話を繋げたのは放送1分前だったと司会者が裏話をした。

 「雨の空港」を切々と歌うスエーデン系の金髪の女性。カラオケがあるからだろう、歌いこんでいる。それだけ、感情豊かになっている。日本でどんな暮らしをしていたのだろう。(KARAOKE。博報堂時代、第一興商という広告主から依頼があった。私のグループのメンバーにその仕事を託した。「夜の銀座のバーではなく、これからは、昼間の明るいステージで、歌を楽しませたい」が、確か営業が受けてきたオリエンテーションの主旨だった。吉田正純CMディレクターは、外人シンガーを起用して、オリジナル曲を庭や街で楽しく歌わせた。海外ロケにまで及んだそのCM展開が話題になっていったが 企業トップの判断が的確で、やがて、海外にDAIICHIKOSHOのKARAOKEの大きな波動となっていった。今では、質の高い音楽イベントを協賛する企業である。世界の若手音楽家の育成を目的とした国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバルがそのひとつだ。20世紀を代表する音楽家、故レーナード・バーンスタインの提唱で1990年に始まり、毎年夏、札幌を主会場に開かれ、今年2003年で13回目を迎える音楽祭である。) 夫婦が登場した。中国人5世の妻にローマ字で発音を教えたというが、五輪まゆみ張りの抜群のフィーリングだった。司会者の日本語は全く解らないと恥ずかしそうに夫の手を握りしめていた。これとは反対に、喜び叫んだ日本人の奥さんもいた。鐘が連打された途端に、「わお、グランドピアノ!」と、彼女は買ってくれる約束をした夫を指さして小躍りが止まなかった。富山で英語教師していた若い先生は、歌い終わって「昨日出したe-mail受け取ったか?」とカメラに向こうの生徒に手を振る。考えてみれば、この番組は、あの「さんまのビデオレター」NHK国際版でもあったのだ。

 「SAY YES」を歌ったシリコンバレーから来た二人が最初の鐘を鳴らし、ラストに歌った「思えば遠くに来たもんだ」の男性が最後の鐘を鳴らして終わった。 そして、2年前にこの世を去った妻に捧げると、高齢の米国人・ペリーマイヤーズさんは、日本語で「夫婦坂」を歌いきった。「アノ人、イイ嫁サンデシタ。3人ノ孫イマス」、特別 賞を受けたのは彼だった。 遠くシアトルからも集まった会場の5000人が大拍手を贈った。
 番組終了が近づいてきた。予選を通過し後ろに座っている25人の顔には、カメラが寄っていかなくても充分に、人生を刻んだ歴史があるなと思わせてくれた。
 やはりNHKだった。「『サンフランシスコの空』今回の出演者の人間模様をドキュメント番組として8/7放映。9/22は北京から」番組ラストにロール・テロップが教えてくれた。
 TOKIO、SMAP、チャゲアスが、ケミストリーがアジアにファンを拡げ、コンテンツ音楽の番組が放送のデジタル化が、「河内おとこ節」を歌った中村美津子は、「演歌の歌手として、もっともっとがんばらなあかん」と。「おやじ」を歌った北島三郎も、日本人にとって、演歌がどれほどの心根になっているか、テレビを通 して伝えられたのではないか。「営業」と称するキャバレー、クラブ回りの機会が激減している日本では、レコードもCDとなって、販促活動がしにくくなった。演歌の大御所の作詞家、作曲家が他界し、阿久悠やなかにし礼が、レコード界から小説・映画界へシフトした。演歌の歌手がバラエティや演劇へステージを変えた。デジタル処理の楽曲、小室からつんく♂、アムラーからあゆ、果 たして日本人口の変動を受け止めるマーケティング思考が希薄になっていないだろうか。広告主の厳しい評価は、演歌のTV番組が消えていくことでも解る。しかしながら、文化放送の「走れ、歌謡曲」も、NHKの「ラジオ深夜便」が根強いことも、真夜中のリスナーであるということだ。深夜便のトラックドライバーだけではない。花に染み込む水のように、多くの中高年の耳に、心に染み込んでいっている。そして、いま、世界で一番早くに日本が高齢化社会に入った。演歌・艶歌・歌謡曲。日本のメロディは消してはならない。

 8/7の番組を見てみた。「僕は追いかけはしない、遠く過ぎ去るものに…」と「さらば青春」を歌った日系混合のコーラスグループ「コーラル・メイ」での2世の吉田さん。クラシック声楽を勉強するために渡米して7年、ホームシックになると口ずさむという「ふるさと」を選んだ永井さん。「船頭小唄」を歌った90歳の帰米二世・宮川さんも紹介された。彼らは予選落ちしていたものの、充分に人間味のあるドラマの主人公を見せてくれた。・・・なんだか、こう書いてくると、昔のテレビ番組のコラム(中部日本新聞)を書いていた頃に戻ってしまったようだ。
 なぜ、ここまで冗漫に書き続けてきたのだろうか?それは、自分の中に、この「NHKのど自慢・イン・サンフランシスコ」の番組企画と同じ気持ちを、以前から持ち続けてきたからだった。「フロムエー」という求人誌。創刊後のロケで、池田友之社長・道下編集長が、どこかのFM局を買い取りたいなあと口にした。この時、米国で頑張っている若者をインタビューして、国の両親親戚 に元気な声を聞かせたいというCM企画が頭に浮 かんだ。米国での局の話は立ち消えたが、新しい形式のラジオ番組の企画は続いた。 開局直前のFM横浜で活かすことにした。フロムエーつまり、From Ameria の意味を 文字って、全米DJナンバーワンの司会者を起用して、リクエスト曲を流す英語番組 案が採用された。
 ロスで録音されたテープから、リクエストした日本人の名前が流れてくる。番組で唯一の日本語が聞こえるのは、CMの部分だった。それも、ロス・アンジェルスからの日本語である。ロスで働く若者をインタビューして、日本の若者や家族に聴かせる という趣向。「ヤング・ジャパニーズ、こんなジョブで頑張る」リクルートのビデオ レターならぬ、在留邦人ラジオCM版だった。(因みに、これは、その後に倫敦や巴里、バンコックへと、若き日のCMプランナー・中谷彰宏君が独りで取材したシリー ズCMとなった)

 スーパードライのCM戦略の底流にも、同じ気持ちがあった。これからの日本人頑張れ!を敷いたのだ。世界に雄飛するジャパニーズ・ビジネスマンを描くことで、自己主張できる若い男性にこそ飲んでもらいたいという想いが強かった。横浜港から貨物船で米国のオルブライト大学に向かったのは落合信彦。やがてオイルマン・ノビー落合は、国際ジャーナリストになっていた。ホテルニューオータニで熱血漢・ノビー落合に初めての広告出演を交渉したのだ。日本のビジネスマンにカツを入れたくて。辛口のビールを一緒に飲んで欲しくて。4年目には、カーネギー・メロン大学の富田教授、ロチェスター大学の住田準教授、シカゴ大学の笠井教授にスーパードライを飲んでもらった。日本の頭脳、此処にあり、日本のオリジナルビール、此処にあり、だった。米大陸はバドワイザーも、やがてビール王国ドイツでも、ドライビールが生まれた。(この話は、また別 の機会に)。


参照
国をシンボリックカラーで考えてみると 、W杯の時のブルーは果たして日本だったのだろうか。 それに比べて、韓国代表のスタンドは見事に唐辛子のレッドで染まった ---
本当は日本人の伝統的な「藍色(あいいろ)」をイメージしていました。
しかし、現実はAdidasのせいで色がきちんと出なかったのでした。
たしか、アシックスが藍色をきちんとできたのだけど、入札(?)で負けたんです。
ということで、たしかフランス大会では藍色にできたけれど、
日韓W杯のときはただのブルーになっちゃったという話。 (某新聞に記載)

※Googleで「藍色」「ワールドカップ」と検索すると、
 以下のような内容を確認できます。

当初は、ワールドカップ開幕にあわせてジャパン・ブルー(藍色)を基調とした特別 仕様にする予定だったんですけど、藍色を上手くつかうのは自分にゃムリだったので、けっきょく水色系のデザインになりました。
http://www.iruka.ne.jp/cgi-bin/bbs3/iruka.cgi?dahe

しかし、日本代表のユニフォームは、なぜか赤白ではなく「青」です。「ジャパンブルー」と呼ばれるこの青は、日本の伝統色「藍色」 ...
http://www.quiltclub.net/topic102.html

庶民に許された色。 日本文化は江戸時代に花開いたが、カラー専門サイトアリスによると、ファッションに関しては、「奢侈 禁止令が発令され、庶民に許された色は、藍色、鼠色、茶色の3系統」だったらしい。藍色、鼠色、茶色の3色をうまく組み合わせた庶民文化が存在したとも思う。「洋服は紺に始まり紺に終わる」と力説する評論家もいるくらいだ。藍色に白抜きの文字などは、郷愁を誘う。エスニックも土色や赤茶色をすぐにイメージする。
http://www.fashion-j.com/r/news/112.html


2001年のエッセイを読む

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