台東区に住んで36年。山手線の外側、上野駅に住んで10年が過ぎようとしている。谷中、千駄 木、根岸など、36年居ても、まだまだ歩き通せない路と場所がある。上野の山を下りて下谷神社近くに住んでも、まだまだ歴史の街は、奥が深い。
 10月は浅草菊花展、11月、酉の市、12月羽子板市、で1月東照宮の冬ぼたん、2月吾妻橋の流し雛、3月上野の桜祭、4月が浅草流鏑馬で、5月三社祭、6月鳥越祭で、7月朝顔市に、ほおずき市と来て、ドーンとあがる隅田川。そして、8月がサンバのリズム。
 季節の変わり目を教えてくれる街にいる。2年前、桜堤の隅田公園で初めて流鏑馬を観る機会を得た。東武線鉄橋下から言問橋までの幅約2m、長さ約300mに白砂が敷き詰められた馬場で、狩装束の鎌倉武士が、疾走する。仕掛けられた杉板の的を見事に射ると、割れた板から紙吹雪が舞う。知り合いの父上が射る草鹿は、約20mの距離にある鹿の形をした的弓を引くものだった。烏帽子(えぼし)を頭に、直垂(ひたたれ) は片肌を脱いで、腕前を競う。固唾をのむという言葉通り、凛と静まりかえる行事だった。
 夏の隅田川花火大会は例年、屋上から観たものだが、今夏は、テレ東の生中継を横目にして、部屋から第1会場、第2会場の左右に打ち上がる火の華を楽しんだ。今年は、墨田区にとってはお目出度いことが決まった。新東京タワー決定である。桜橋と言問橋の間に設営された第1会場から9300発、駒形橋と厩橋の間の第2会場から16500発が打ち上げられた。

 7月29日から一カ月後、再び浅草は、燃える。今年こそは、浅草サンバを観に行こうと決めていた。台東ケーブルテレビの画像を眺めていたが、それでは、あの 数百人の激しい打楽器のサラウンドは体感できないからだ。住民としては、一度そのリズムと歌声の中に包まれてみたくなった。
 26回目を迎えた浅草サンバ。13時。手帳に書き込んでおいた。ある電話で家を出遅れた。生中継する台東ケーブルテレビ、5チャンネルを点けてみる。まだ、雷門前にパレードは現れてはいない。走れば間に合いそうだ。急いだ。カメラを持って走った。夜のウオーキングコースとして、アサヒビールの社屋を往復してはいるが、今日はいつものウオークペースでは間に合わない。かなりの早足で歩く。汗ばむ。本願寺の裏、菊水通 りを抜けると、国際通りと雷門通りの交差するT字路だ。八目鰻前のそこは、背の高い仕切りで囲われていた。サンバ・パレードのゴールである。
 既に、見物客は歩道を埋めていた。雷門まで歩けない。体のすり抜ける隙間がないほどだ。やむなく、寿司屋横町の入口で足を止めた。そうなると、パレードの姿を近づいてくるサンバの音で察知するほかない。僅かな人の脇の下から、300ミリのズームレンズを差し込む。そして狙う。
 ここ浅草は、明治時代、日本最初の映画館が出来た街だ。日本で初めてエレベーターを取り付けた12階建ての赤レンガビルが建った街だ。水族館や、サーカスなどもこの街から始まったという。「大正オペラ」が聴かれ、そして、フランス座や木馬館、大勝館、東洋館、浅草演芸ホール、など、幅広いジャンルの大衆演劇を生み出してきた。 娯楽観劇街が都内に多く拡散し始めたとき、浅草喜劇俳優だったバンジュンこと、伴淳三郎が、区長と企てたのが、ブラジルのサンバカーニバルを浅草に持ち込むことだった。商店連合会が受け入れ、イベントの主体となったのだという。 当然だが、浅草観光連盟も賛同して浅草サンバカーニバルは夏祭りのひとつになった。 現在では本場、ブラジルからも高い評価を得て、20年が経っている。このサンバパレードは、ただただ踊るのではない。コンテストなのである。
 最初のうちは、コンテスト採点対象外の団体、小学校の鼓笛隊が続いた。トロンボーンやチューバ、ドラムを必死に支えながらリズムを取っている。体全体でサンバのリズムを叩いている。音楽の先生だろう、隊列の横から、両手を指揮棒にして声をからしている。沿道の父兄から注がれる視線に顔が引きつっている。孫の姿見たさに、スッポンの首のように人垣に突っ込んでいる。道路の向こうを見ると、車道に椅子が並んでいる。関係者だろうか。それにしても、あの人垣では、トイレに立つこともままならないだろう。暑い炎天下の中で、ペットボトルも飲み干せないのではないか。
 浅草寺の二天門前から馬道通りをスタートし、松屋デパートの前で右折して雷門通 りを進み、約800メートルで、国際通りに突き当たる手前、寿司屋横町の入口がゴールだ。
 やがて、大音響のスピーカーを載せたアレゴリア(飾り山車)が次から次に迫ってきた。タイムテーブルを持っていないので、どういうサンバ・チームが出てくるのか、全く判らない。プラカードの文字を読むだけである。パレードは3つのリーグに分かれていて、それぞれのリーグで優勝と準優勝、またコスチューム賞などの各賞が決まるという。エンターテイメントリーグから始まり、第2リーグから、装飾に凝ったパレードと迫力ある演奏の第1リーグになるのだと、隣の人が親切に教えてくれた。その人によると、パレードの順番は、サッカーのように前年度迄の成績順で第2、第1とリーグのグループが区別 されていて、第1リーグに上がるには準優勝以上を勝ち取るしかないそうだ。仮に今年、第1リーグで成績が悪ければ、入れ替わりで下位 リーグに落ちるのだという。楽しそうに踊って見せてくれているが、サンバ・チーム("Escola de Samba":エスコーラ・ジ・サンバ)にとって、毎年のサンバ・パレードは、戦いの場なのだ。  
 小気味いいリズムが腹に響く。音響装置を載せたトラック(トラックに飾り付けたのをフロート、人力で手押しをするのをアレゴリア)からは、めいっぱいボリュームを上げた歌声が流れる。否が応でも踊り手の気持ちは高まる。観客の声も拍手も波のように動く。 感心したのは、演奏したり踊ったりする老若男女の誰もが、ポルトガル語か、ブラジル語か知らないが、原語で歌っていることだ。楽しんでいる。笑っている。観客には意味はさっぱり解らないが、口が止まることはない。しかも、その歌詞は、チーム毎にオリジナルだというから驚きだ。ブラジルで歌われている曲かと思ったが、違うのだ。
 毎年、チーム毎にパレードのテーマ(Enredo:エンヘード)を自分達で決める。このテーマに沿って、物語を描く。歌詞をつけて、毎年新しく作曲される。しかも、テーマ曲は、浅草サンバカーニバルで演奏されるだけでなく、その年、1年間歌い継がれるものだということを後で知った。
 きれいに揃ったサンバ・ステップも気持ちいいが、とにかく、1チームの人数が多く長い。サンバ・ダンスを象徴する、あのセクシーなコスチュームをしたダンサー。背中に大きな羽を背負ったパシスタ(Passisuta)が、先頭に出てくる。彼女たちは、体つきからして日本人離れしている。道幅狭しと言わんばかりに、腰をくねらせて、左右の観客の声援に応える。その度に、フラッシュが炸裂する。今回のパレードには、何人もの外国人リオ・デ・ジャネイロのサンバ・カーニバルと言えば、まず、この姿が浮かぶ。
 300ミリのズームレンズを手にしたものの、なかなか踊りの瞬間が撮れない。狙いをつけている空間に、突然、一斉に腕が伸びてくる。腕の先には、コンパクト・デジカメをある。こちらの写 角に写るのは、斜めに横切る人の腕、腕、腕。百手観音が現れたように、だ。狙ったダンサーは、既に人の頭の向こうに着ていってしまう。「ファインダーから目を離せ。」とは、背面 液晶のレベルを上げたデジタルカメラの新聞広告だったが、確保したカメラポジションの前に、無礼なカメラや携帯電話カメラの手が伸びて視界を遮るなどは、観光地でも起きているのだろう。手の伸びる先に被写 体を狙うことを考えないと・・・・。



 パシスタに続いて、打楽器隊(Bateria:バテリア)、コーラス隊、タンバリンに似たブラジル特有の打楽器(パンデイロ)を曲芸のように打ち鳴らす男性陣。そして、大きく膨らませたスカートでグルグル回る女性陣。そして、山車の前を踊る一組のシンボルがチームの大きな旗を振りかざしながら踊ってくる。王子のような役がメストリ・サラ(Mestre-Sala)で、お姫様がポルタ・バンデイラ(Porta-Bandeira)。裸に近いパシスタに比べると、重装備で暑苦しそう。10kgくらいあるよ、と、これまた詳しそうな人が教えてくれた。
 今日の日のために、曲や演奏、振り付け、コーラスそれに、アレゴリという山車も衣装も、1年がかりで準備したそうだ。1年かけたものが、80分のパレードで終わるのだ。しかも、衣装や装飾物は、その年、1回限りのもので、明日からは、すぐ来年のテーマを考えることになるのだそうだ。参加者を呼びかけて、1年のスケジュールで練習して出場してくる。チーム員の人たちにとっては、毎日がブラジル天気なのだ。 ゴール近くでの打楽器は一段と激しく高くなる。これが打ち終わり、踊り終わりだと考えれば、相当ハイになってくるのも解る気がする。地元の商店街からも、顔なじみのダンサーには、おおきな声がかかる。わっと拍手が起きる。ここで、見事なのは、40人以上が打ち鳴らしているバテリアの音がピタッと止むことだ。爆音から静寂になる一瞬に、こちらもつられて感動してしまう。提灯の明かりが灯り、気がついたら、もう6時間も立っていた。

 33団体、約4500人による下町の熱い夏は終わった。見物客の数は約50万人だったという。僕にとっては、区民となって初めての体感だった。今夏の優勝チームは、仲見世バルバロス。3年連続だそうだ。
 東京では、同じ8月26日、「原宿表参道元気祭りスーパーよさこい」があった。「よさこい」というのは、「夜に来いや」という意味である。夕闇迫った浅草から、表参道に流れていった見物客もあっただろうが、どちらも賑やかで陽気でリズミカルで迫力がある。98チーム、6000人が参加したそうだ。
 遠くの鎮守の森から聞こえてきていた盆踊りの太鼓の音が懐かしい人もいる。しかし、この東京というコンクリートの街には、広場を回るより車道を直線的に踊りながら自らも音を出すほうが向いているのかも知れない。大学生が興した札幌の、あの「よさこいソーラン祭り」も、浅草サンバの10倍の規模、300余りのチームによる和洋混載の群舞で、いわば、エアロビクスで鍛えたリズム体操のようにきびきびしている。我々には、「原宿ほこてん」の発展系に想える。
 神社に造られた奉納相撲より、交通規制をして車道を走るマラソンが人を集めるように。浴衣を着て夏の夜を楽しむのは、もう花火しかないのだろうか。その花火も、「合格おめでとう」とか、「結婚しました」とかという、メッセージ花火が打ち上げられる時代だ。帰りの人の群れを避けるために、浅草寺の裏のホッピー通 りに向かった。屋台が連なる昔懐かしい風景だ。道路に出ている椅子のひとつに座った。
 しばし、下町に住んでいる気分に浸りたかった。

 日経産業消費研究所の消費動向専門誌「日経消費マイニング」が6月実施した「繁華街利用動向調査」によると、最近5年間に、仕事以外での来街頻度が増えたのは、新宿がトップ。これに続いたのが、海外ブランドの大型直営店ラッシュの銀座、有楽町、大規模な再開発をした表参道、そして汐留、池袋と続いて、日本最大の家電量 販店ヨドバシカメラが出店した秋葉原、六本木の次が上野・御徒町で、お台場より上位 の8位だった。浅草はといえば、おしゃれな隠れ家の多い代官山を抑えて、20位 だった。浅草寺と隅田川を持ち、文豪の里、根津・谷中・千駄木、美術館・博物館・芸大、アメ横、秋葉原という流動口を持つこの街は、過去と未来を併せ持つ希有な街であると、つくづく思う。
 2007年、団塊の世代がリタイアする。大正・昭和を懐かしむ人が、今以上に、この街を歩き始めるのではないだろうか。


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