U夫妻は70代。我々と新潟のS夫妻は60代。僕は腎不全だから、寒い地方や海の土地の食事が困る。味噌や塩を使ったり、塩魚油つまりは醤油を使ったりする保存食に近い食材が美味でも口に出来ない。他の二人の御主人は、心臓病。リタイアして若くはないのだから仕方がない。Uさんは、高等学校の元校長さん。S家の荘輔さんは元市役所も役職者。船で知り合うと、肩書きの知らない者同志が、まさに同志が乗っているので、人間的な接点で意気投合する。これがいい。夫婦が初めから一緒に知り合うので、これまた気持ちが楽である。こうして、互いの家を行き来してきた。S夫妻は、静岡焼津や北海道の「船友」宅にも旅行している。

 さて、本日はU夫妻のために、弥彦神社に行くのだ。北陸のお伊勢参りに相当する由緒ある神社である。玉 砂利を踏んで杉木立の中を森林浴しながら、厳粛な気持ちで本殿に向った。

 女性三人組が神妙に両手を合わせて何か念じているようだ。後ろ姿では、てっきり東南アジアからの観光客だと思っていた。一人は派手な色のオーガンジーふうの端切れを重ねた薄ものワンピース、タンクトップノーブラにジーパン、アオザイのような衣装と、三人三様で、バンコックにでもいるような錯角をした。彼女達が、おみくじを引いて笑いあっている姿を観て日本人だと判ったが、なんとも奇妙な取り合わせの光景だった。まあ、ヨーロッパのカテドラルで日本人観光客が和洋折衷の出で立ちでデジカメパチパチしている姿もそう映るのだろうなと独り苦笑いした。

 弥彦神社のロープウエィで山頂に上がった。心臓の弱いUさんにとって、あの勾配の階段はきつかっただろうと気になった。神社と名の付くところは、修行の霊山でもあるだろうが、明らかに観光客の歩く階段は、緩やかな設計が望まれる。ゲレンデスキーのゴンドラから下車した駅舎の階段も凍結しているために、不自由なブーツでよくこけて、捻挫するものがいる。スキー場の旅館やヒュッテで、疲れ切った足取りで乾燥室に入るときのあの恐さにも似ている。ユーザーオリエンテッドではなく、施設側の予算御都合で客足を遠避けていることに気づかない旅行業者や観光局側が多い。眺めが良かったり、樹氷を宣伝するのもいいが、集客の抜本対策とは、地元の目線では見えないものなのだ。例えば、滑ってきた客の乾燥室への導線で言えば、安比高原のホテルが怪我をさせない安心な宿のサンプルだと言えよう。

 この弥彦山頂は、新潟県での重要な拠点であるとS家の美子夫人が説明してくれた。NHK、民放などなど、通 信塔がここに集中しているとか。あいにくと佐渡は見えなかった。来年は佐渡に渡ろうとここで決まった。日本海の新鮮な魚介類を売る魚市場が軒を連ねる場所が寺泊にある。通 称アメ横と言われている。ここには、東京からも買い出しツアーバスが何台も来ているという。有名な魚市場だ。アメ横のように威勢のよいかけ声があちこちから掛かる。先回のときは、蟹を何匹も買って東京へ送ったが今回は何も買わなかった。

 昼食を取るためにコースは北上した。弥彦スカイラインを降りて、カーブドッチに行くと言う。海水浴場を左に観ながら、角田浜へ向った。途中、エチゴビールのボトルを買いたかったのだが、見過ごしたようだ。エチゴビールは、全国第1号の地ビールだからである。痛風になってしまった身ではあるが、ビールに関しては、業務を終えた今でも、相変わらず世界のビールボトルを集めている。だからこそ、地ビール第一号のビールはコレクションには加えたかった。しかい、日本海夕陽ビールの看板を見て、そのレストランに入り、まず、地ビールである日本海夕陽ビールの4種類を買った。その上で、尋ねた。
 「東京から来たものですが、エチゴビールは何処にありますか」レジにいた若い男性は、一言「知りませんねえ」「観光地図には書いてあるのですがね」再び「知りませんねえ」と、答えるだけ。店内の誰かに訊きにいく気もない。そこでカッとした。いつもの僕が出てしまった。「貴方ね、日本海夕日ライン沿いに、仮にもライバルのエチゴビールがあることくらいは、知っていてほしいものだねえ。エチゴビールという競合を飲みに行くくらいしてよ。最初に、東京から来たと言ったからには、もしかして観光客かもしれないって思うよね。新潟には、まだ他の地ビールもあることは知っているでしょ、国際賞を取ったスワンビールとかね。…………同業のエチゴビールの道筋くらい覚えておくべきじゃあないかな」彼の返答はないままに、レジ打ちで誤魔化された。

 最近は、大手ビールメーカーに対して善戦していた盛岡の銀河ビールも売れ行きが思わしくないらしい。生だ、酵母だ、ホップだの時代から、税法対策への苦肉の策で生まれた発泡酒(いや発泡ビール)をサントリーが開発すると、国内ビールメーカーが競い合って製品化した。このことが、皮肉なことに、日本国民に本来のビールの味を忘れさせる程になっている。苦いビールを永年に亘って、ドイツビールだと思わせられていた日本人も可哀想だが、今度は、材質も麦芽を使わないで、サッポロがエンドウ豆、その後に他社が大豆やとうもろこしを採用した飲料である。ドイツでは、当然のことながら、「ビール」とは呼ばない代物。なんだか、高級アルコールベンジンを飲用していた戦後の酒のようだ。当時は、酔えればいいとバクダンなどと言う物騒な酒があった。「第3のビール」という呼び方は、どこかの記者が名付けたもので、いずれにせよ、ビール系飲料、ビール風味の飲料と言う、言い訳がましいジャンルを創ってしまった。市場の動きを侮れなくなったあのコカ・コーラでさえ、ビール系飲料が出てしまった。かつてキリンが寡占状態のころ、ライトビールは、何処から出しても売れなかった時代があった。いまは技術開発力が進化して、カロリーオフ、糖質オフ、プリン体オフのビール?が女性やシニアに飲まれている。なにしろ、缶 ビール1本焼く170Kcal、つまり御飯一杯分で、70%がアルコールで、30%は糖質であることを忘れてはいけない。

 糖分が心配されてカルピスが、ガス飲料が嫌われてコークが市場で活発でなくなった時、白黒から赤(トマトジュース)、茶(ウーロン茶)、緑(日本茶)へとシフトしたように、白(日本酒)琥珀(ウイスキー)から、茶(ビール)に傾いたものの、いまや、二日酔い知らずのノンガス、焼酎へ流れている。多種多様のビール発売が、ビール市場の中でカニバリングを侵していることもあるが、賞味期限のあるアルコールが裏目になってもいるのだろう。売れない商品はブランド化も出来ず、また新しい製品に席を譲ることの繰り返しが続くのだ。

 そういえば、アイルランドの国民ビール、ギネスの売り上げが減少しているという。僕もなにがなんでもとダブリンでは、パブに飛び込んでギネスを飲んだ。そのパブが禁煙となったことで、客足が遠くなったことも遠因らしいが、自宅でボトルタイプのビールが飲まれる傾向にあると言うことだ。全米では子供の肥満化が社会問題になっている。小学校の自販機では、清涼飲料の制限をして、水と果 汁100%ジュース以外は入れない計画がある。中学でもカロリーや糖分が少ないスポーツドリンクを加える程度だという。全米の学校で売られる80%がコカ・コーラとペプシであることからすると、2005年の秋から、両社は新たな問題を抱えた。伊藤園は、日本茶飲料をペンシルべニアで現地生産し始める。現在、北米の無糖茶飲料では3位 だそうだ。

 車は角田浜を新潟に向って走る。途中Y字賂に出た。「カーブドッチ」の案内看板があった。その矢印は直線を示していたが、実際は左折である。「カーブはどっち?」車内で思わず笑いあった。この笑いも、地元の美子夫人が運転してくれているからだが、当初の予定通 り、東京から車できていたら、迷ったに違いない。案内版の修正をお願いしたい。

 左折の先である細い道を右折する。「カーブドッチ」、正確には、「カーブドッチワイナリー」という。細い道をしばらく走ると、突然、味わいのあるハウスは数軒見えてきた。駐車場から歩くと、小さな軽井沢という雰囲気。ガラス工房もパン工房もソーセージ工房、ジェラード工房もワイン醸造棟も、ワインショップもあるなかに、カーブドッチレストランとレストラン薪小屋があった。かなりマニアックなファンが来るのだろうか、ワイン談義が聞こえて来る。周囲は葡萄畑である。僕の口にできるのは、残念ながらソーセージなどのドイツ料理ではなく、スパゲティ類のイタリア料理となった。

 ところで、人気のワイナリーランキングが日経新聞に載った。あのエッセイスト玉 村豊男が自らオーナーとなった長野県東御市にあるヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリーが第1位 となっていた。葡萄を植えたのが1992年であるから収穫量はまだ少ないという。ハーブ園もありレストランがある。知的障害者のこころみ学園の人たちが育てた葡萄で評判のココ・ファーム・ワイナリー(足利市)は、第2位 になっていた。小布施ワイナリーとメルシャン勝沼ワイナリーが4、5位 、熱海から近い伊豆ワイナリーシャトーT.Sも6位に入っていた。仕事で僕がネーミングをしたり、パッケージデザインした岩手の「十二夜」ワインは、銅賞を受賞した。ところで、カリフォルニアのナパヴァレーは、薩摩の武士がフランスのマルセーユに上陸して後、米国に渡って切り開いたワイナリーであることは案外知られていない。同じ脱藩して渡航した薩摩の武士たちは、帰国してサッポロビールを創り、江田島で海軍を創り、東大を、国会図書館を、大坂商工会議所を創ったのだ。一人の貿易商の差し出した船が日本を変えたと言っても過言ではない。彼の名はグラバーである。そしてグラバー邸の近くには、小さな葡萄畑があったということをものの本で読んだ記憶がある。サントリーの、いや寿屋の赤玉 ポートワインは、ポルトガルのポルト港の葡萄酒を意味した。赤白のワインはワインの種別 になるが、紅白の詰め合わせとなると、日本では、目出度い喜びの印となる。この紅白は、運動会の玉 入れ合戦であり、その後、NHKでも紅白歌合戦と称したが、実は、この色の対比は、源平の壇の浦合戦での旗印から始まったものである。

 その義経が、伊勢美濃から奥州へ落ち延びる途中、この新潟の寺泊から国上寺に寄ったようである。我々は、再び南下して弥彦駅へ向った。長い坂道を十数分上り、県最古の寺、国上寺に着いた。境内には、武蔵坊弁慶らを伴った義経が、これからの行く先の無事を祈願して、寄進した持仏の大黒天木像が本尊として安置されている六角堂がある。国上寺は、全山極楽浄土であると案内版に書かれていた。この少し下った場所に、良寛が修行をした五合庵がある。大正三年に再建されたのではあるが、実に質素な一間の庵で20年間もの間、修行したのである。




 宿までの帰路、黄金色の波を何度も見た。越後の里は、米どころである。見事な稲穂が頭を垂れていた。収穫時期に台風が来なければいいと思わず念じる程に、見事な黄金色の波だった。幼い頃に、脱殼機を踏んだことがある。車を停めて写 真を撮った。

 夕食時は、U夫人たついさんとS夫人美子さんが同月の誕生日であったことが判り、カーブドッチで買ってきたワインを開けた。昨夜おつまみに出された枝豆の数の少なさが物足りないとばかり 荘輔さんは、自分の畑から大量 に採ってきた。生ビールになったとき、それが調理場から茹であげられてきた。「都会の人は、枝豆の食べ方を知らないな」と、荘輔さん。舌と歯で、豆の薄皮までを剥がして食べるのだと、何度も何度も練習させられた。初めての食べ方だった。

 これがきっかけで、帰る日の明日は、菅井菜園に行って、野菜を採ることになった。

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