スエズ運河を通過してポートサイードの港に着岸した。昼食は海鮮丼と温麺だ った。シャワーを浴び少し昼寝をしてから、15時に街に出た。日射しがいくら か安らいだかと思ったが、街は、砂嵐か、細かい粒子が立ちこめて、徐々にベージュ色に霞んできた。桜島の噴火後のような空気だ。
 港の突先にあるレセップス像を見に行く。ところが、レセップスの顔などは全 くない。台座の円柱があるだけだ。あっけにとられて手にした地図をよくよく見ると、確かに言い訳がましくご丁寧に、レセップス像「跡」と書いてある。 あのレセップスをスエズ開港の祖と尊ぶ時代は過ぎたのだろうか。地中海とインド洋を結びつけたという海路は、その後ヨーロッパの人間にいかほどの影響力を与えたか計り知れない。ここは、スエズ運河工事のために湖を埋め立てて 創った都市であると聞いた。このため、区画整理された新しい街である、と。 だからこそ、レセップス様々の街ではないのか。しかるに、観光パンフレットにわざわざ「跡」と書くからには、修復を計ろうとしての工事中だとは受け止められない。アンダーコンストラクションらしき、張り紙もテープも張り巡らされてはいなかった。
 レセップス跡にいる観光馬車の御者が、近づいていく我々に声を張り上げる。 「タカクナイ、タカクナイ、ヤバイヨ、ヤバイヨ、バザー、バザー、ドゾドゾ」 街のスーク(市場)に案内するから乗らないかと盛んに身振り手振りである。 銅像の前で「ドゾドゾ」は、出来過ぎで、なんともおかしかった。だが、にこにこと笑いながら言われる「ヤバイヨ、ヤバイヨ」には、参った。心ない日本人が冗談で、教えたのだろうかと思ったのだが、考えてみれば、「ヤスイヨ、 ヤスイヨ」の憶え間違えではないのか。彼はきっとその意味で使っているのだろう。日本人観光客が、それを聞いて笑ってしまうから、彼にしてみたら、うまく通 じていると勘違いして、いまも懸命に声を張り上げているのだろう。

 夕食時が来たので船に帰ろうと、イミグレの建物に向かう。
「ホンダサン、ヤマダサン、タカクナイヨ。タカクナイヨ!」と軒を連ねる露天商の店主がすがる。形相が変わってきている。今夜が出港だと判っているからだろう、最後の売り込みだ、とばかりに、イミグレまで売り子が駱駝の縫いぐるみを手に追ってくる。
「ロズ…ロズ…ロズ…」日焼けした老人が、気弱そうな声でいいながら、皺くちゃの手で花を差し出した。口数の多い男たちからではなく、言葉が聞き取れないくらいの老人から妻は、バラの切り花を買った。
「自宅から切ってきたのかしら、やぶからしのようなものが巻き付いているわ。 木の枝もくっついているし…。おじいちゃん、自分のお小遣いは自分で稼いできなさいねとでも、お嫁さんに言われてきたのかしら」
部屋で生けながら妻が独り言を言った。
 「ヤバイヨ、ヤバイヨ」の御者、「タカクナイ、タカクナイ」の露天商。いずれも、日本人観光客への売り言葉は、先手必勝のようだ。アラブ人からモノを 買うときは、値切ってみることだとガイドブックに書いてある。これをアラブ 人側からウラ読みすれば、「最初から日本人を警戒させるな、財布の紐(古い言葉だな)をゆるめさせるには、高くないよと安心させることだな」誰かがこう教えたのではなかろうか。 つまり、「ヤバイヨ、ヤバイヨ」、「タカクナイ、タカクナイ」はビジネス用 語なのだ。「ホンダサン、トヨタサン、アオキサン、マツイサン」と呼びかけ ても、実行力のあるビジネスには弱いと判ってきたのだ。

 シンガポールの教科書が世界各国の学校で使われているという新聞記事を読んだことがあった。米英など25カ国に輸出されていることに驚いたものだ。しかし、さらに驚くことがあった。世界の小4と中2の算数や数学、理科の2003年学力調査は、シンガポールがいずれもトップだったのだ。この国では、IT系技術 立国になろうとする礎が着々と築かれていく。
 ところが、日本人は理数科系が弱くなったというのに、小学生から英語で授業 という学校がかなり増えてきた。「早教育」というらしい。その前に日本人としての教育では、すべきことがあるのではないかと思う。教育の基盤は、国語と算数にあると言われる。今の若い日本人の敬語の乱れは、ひどいものだ。省略語の行き過ぎも方言の乱暴な使われかたも、「ら」抜きのしゃべりも、日本語を随分と乱してきた。フランスのシラク大統領が、自国の閣僚クラスが英語で演説したことに立腹した一件は、世界中に知れ渡った。フランス語に対する気持ちがわかりやすく主張された。また、イギリスでも米語の混入を避けるため、英語本来の用語に戻す動きがあった。英語が世界の共通 言語になりつつあることは否めない。韓国の財閥系企業のビジネスマンが英会話を必須としたり、日産が社内言語に英語を積極的に採用するのは、彼らが、それをビジネスコミュニケーションのツールとして必要であるからだ。その意味で言えば、英会話能力というものは、単なる手段でしかない。英語がしゃべれることに優越感を持たせるのは、将来なにか間違った思い上がりをさせないかと気になる。
 英語力の前にコミュニケーション力を養うことだと誰かが指摘していた。ロス・アンジェルスで、仕事上、どうしても通 訳が必要になった。若い日本人が来てくれた。USLAの学生会長のような役を務めていたという、関西出身のS君だった。彼が話す言葉は、とてもきれいな日本語だった。結婚した相手は、東欧の人である。なぜ、これほどまでに、敬語の使い方が巧いのかと訊いたこ とがある。理由を聞いて納得した。通訳のオファーを受ける相手は、重要なビジネス交渉に来られる日本のトップが多い。彼らは、かなりのプレッシャーを 受けながら神経をすり減らしている。間に入って交渉ごとを進めるのに、互いの尊敬の念をおろそかにすると、まとまりにくいケースが多い。
「日本語でお話するときは、わかりやすく丁寧にと心がけてきただけですよ」
S君はこう言って、至極当然ですよねと僕の目を見た。これと似たことがある。外国人が話す日本語の方が、敬語の使い方が巧いという場面 にしばしば出くわす。こちらが、しゃべれなくなるほど、恥ずかしい思いをしたことはないだろうか。
 「見れた」などという「ら抜き言葉」をしゃべる局アナもいるし、広告コピー に「ら抜き言葉」を堂々と載せてしまう大手企業もある。若いコピーライターが書いた広告コピーを若い宣伝部員が間違った日本語を正そうともしないでいるのだから、日本語の崩れていく現実が嘆かわしい。論理思考が出来なければ、いくら英語が話せても、それは通 じたことであって、その先にある、会話の相手を理解させることも説得することも出来ない。小学生には、正しい日本語をきっちり教えてもらいたいものである。
「これまでの中学時代の英語教育が間違っていたのだ。ジャパングリッシュ。外国人に通 じない日本人の英語の先生では効果はない。ネイティブスピーカー による耳からの授業が一番早い。こういう認識を政府が持ってくれて、話せる英語を日本の中学生からきっちりやり直せばいいだけの話だ。FENだけで英会話力をつけた小林克也は、日本から出たことがなかったそうだ」
こう力説され た70代の船客の切なる気持ちには同感した。
 箸を正しく使えない日本人が増えていく。グルメ番組や旅番組で箸の持ち方のみっともないタレントだ。実は各局ともいわゆる"握り箸"など要注意タレントのリストがあるとか。露骨に握り箸がわかる画面 が映し出されると なぜ箸を使えないタレントを起用するのだと抗議されるから、できるだけ手元を写 さないと言う。箸を正しく使えるのは、大学生では29%しかいない。 これは、目白大学院の谷田見教授による調査結果だったと記憶している。彼ら彼女たちが親になり、子供たちを躾けられずに、育った日本人が多くなるのかと考えただけでもぞっとする。こうして世界の港を回っていると、現地の日本人ガイドの日本語がやはり、きれいなのは嬉しいし、反面 日本の現実 を知る我々は恥ずかしい限りである。箸について言えば、シンガポールをはじめ、世界では回転寿司店が増殖し始めているから、もしかすると外国人のほうが箸の使い方が上手くなってくるかも知れないのだ。そして、次には、和服の着られない日本女性が増えて、浴衣が日本の夏の和服になってしまう。
 イタリア国旗の三色、白は雪、緑は国土、赤は情熱というよりも、白ワイン、 赤ワインに緑はオリーブだと思う人がいる。イタリアの最近の若者たちは、ワインよりビールを飲み始めたそうだ。国を創りあげるのに何千年もかけて、国が固有の文化を継承維持できなくなっていく。書けなくなった、読めなくなった漢字より、しゃべれる英語、いや米語だろうか。
 「鯉は桃食う」と外国人が真剣な顔で言った。日本語はやはり難しい。「恋は、盲目」。



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