4月6日、横浜大桟橋を出航する朝、中高からの仲間から、携帯メールが入った。タイトルに「訃報」という2文字があった。「Aが急死」したという。愕然とした。 2週間前に、集まったばかりだった。目を疑った。
 酒も飲む。ゴルフもする。浅黒い顔つきは、生来のもので、肝臓が悪いわけではない。毎年3回は集まろうということで、東京で生活している、かつての勉強仲間で会うことにした。その最初の幹事役をA君が有楽町で、3回目の幹事役に僕が指名された。本来4月の半ばという予定を、僕の都合で3月末にさせてもらった。4月に入ると日本に居ないからだった。

 桜の開花を期待しつつ、昨年の12月に日を決めた。上野公園下の水月ホテル・鴎外荘で東京都認可第1号の温泉に体を温めてから、浴衣でくつろいでもらって、懐石料理を楽しんでもらうといった趣向だった。3人が欠席したが、11人が集まった。66歳。会社人間を辞めて6年目。取締役の現役が3人、他は自由な時間を持てるようになっていた。前立癌の手術が成功した者、肋骨腫瘍が良性だった者。会えば、孫の話は出ない。検診の数値ばかりが話題に上ってきた。
 女将のサービスで、芸大生バイオリニストのお座敷ライブというサプライズまで頂いて、幹事役としては有り難いことに面 目を保てた。
 鴎外懐石も終わりに近くなったとき、仲間の一人が切り出した。
「○○カントリーを予約してあるが、誰か一緒にプレイしないか」
それを受けて、Aは、「あんまり不義理してもいかんで、冬の間封印してきたゴルフバッグをそろそろ開けるか」そう言って笑って参加を言い出したくらいだった。
 気象庁の予想に反して、上野は桜の花びらを見せてくれた。会食後、上野公園の夜桜見物をしながらパンダ橋を渡って駅に送った。それから僅か、5日後に倒れたことになる。脳梗塞だった。仲間と会って15日目に他界してしまった。
 だが、もし、幹事が他の誰かだったら、予定通り4月の中旬だったら、我々仲間は会えないままになってしまったのだ。
 A君の脳裏には、あの夜桜が残ってくれただろうか。はかなくも「同期の桜」がひとひら散ってしまった。

 横浜ロイヤルパークホテル前の桜が、風に舞い始めた。
「…俺は…あと、幾たび桜が見られるのだろうか……」
思わず口をついて出てきた言葉だ。

 ブラスバンドの音楽が埠頭に響き、五色のテープが投げられ、銅鑼が鳴り、破れんばかりに紙の旗が振られ、船が岸壁を離れた。4月6日、桜の散り始めた国を離れた。惜別 の思いが二重に重なった。

 横浜と神戸から懐かしい顔が乗っていた。3年ぶりだ。老けてしまった顔、痩せていた顔、そして変わらぬ 顔々。いずれにせよ、船の上で会えた元気を互いに喜び合った。
「萩原さん、金はいくら貯め込んでも、あの世界には持ってけへんからな」
「家族で争いさせるタネは蒔かない方がいいね、姉のとこが困ってたもの」
「自分が稼いだ金は、自分たち二人のために遣うことにしましたよ」
 既に僅かな年金生活者になっている。金が循環している人を羨ましがっても仕方がない。仕事馬鹿をしてきた道は、後戻りできないのだ。ならば、せめて人生の先輩たちから、心を学ばせてもらうことにしよう。

 徳之島、沖縄、宮古島、石垣島沿岸を航走していくにつれ、あの男性を思い出した。世界大会に8年も出場したウインドサーファー・飯島夏樹。夏の男で生きるよう運命づけられていた。作文は、僕に今一番力を与えてくれていることだからと、彼は、小説「天国で君に遇えたら」を出版した。余命といわれて半年が過ぎた2005年、家族はオアフにいた。冬を越せない余命ならと、冬の来ないハワイに移住する決意をしたのは、妻・寛子さんだった。ドキュメンタリー番組で見る限り、夏樹さんの顔は、肝臓ガンに冒されている黒さというよりも、潮風で優しく焼かれた 健康そのものの黒さに思えた。病床に横たわりながら、カメラに向かって語った。
「僕は、十数年海とつきあってきましたけれど、主役は、風と波と海なんですよ。ぼくなんか、ほんと、遊ばせてもらっているんです。生きてるんじゃあない、生かされているんですよね。なにか、僕が生かされている意味があるのでしょうねえ、きっと」
 夏樹さんは、オアフのマンションから、新潮社のHPに闘病生活を綴っていたが、やがて命を燃やし尽くした。夏樹さんと寛子さんは、出会って半年で結婚したという。我々も紹介されて二ヵ月で婚約し、半年後には結婚していた。そして、僕はいま、腎不全で食餌療法のために、妻の手を煩わせている。
「大事なのは、どれだけ生きたかではなくて、どう生きたかだ」
ドキュメント番組の最後は、こうナレーションを締めたと、記憶している。

 妻への感謝を込めてもう一度船旅に出た。今回の船客292名。最高齢者が91歳。平均年齢は、70.9歳。前回の世界一周で下船された後に亡くなった方が3人いたと聞かされた。
「老人ホームで亡くなるくらいなら、船の方が精神的にも肉体的にも安心ですよ」
こう言われたあの方は、どうされているのだろうか。
「私、実はね、癌なのよ」さらりとおっしゃった方は、今回もご主人と元気に乗ってこられた。1年前に予約して、その間に入院して、リハビリして乗り込んだ方、先立たれた方、一戸建てを処分した方などなど、一人一人がドラマティックなヒストリーを持っ ている。こうした多くの船客をモチーフに、妻は小説を書きたいと意気込んでいる。

 

  今回はゴルフバッグを乗せなかった。そうしたツアーコースは設定されなかったし、ゴルフなら、デッキゴルフ三昧に徹しようと決めて乗った。03年組のメンバーが5人も乗り込んでいるからだ。なにしろ、飛鳥でも、ぱしふぃっくびーなす号でも遊べない、にっぽん丸だけの船上スポーツである。朝食後の9時から昼食になる12時まで、後部デッキでたっぷり3時間。文字通 り炎天下、紫外線のシャワーを浴び放題。僅か3日目で首筋が日焼けで痛い。マラッカ海峡からプーケットを抜ける頃には、すっかり火ぶくれになっていそうだ。
 そういえば、リタイアしてバンコクに住んでいる元会社の同僚O君は、1週間に3回という正真正銘のゴルフ三昧を過ごしている。
「ゴルフシューズの底がツルツルだよ」とメールが来たものだ。スニーカーよりゴルフシューズが擦り減ってしまったというから凄い。
「シラチャから10キロ離れたリゾートマンションの12階に自宅を決めました。窓外はシャム湾が視界180度に広がって、夕日を愛でながらソルテイドックです。バンプラ・ゴルフクラブには、わずか15分の近さ。その他ゴルフ場多数あり!そんなわけで当分帰国できそうにありません」
 O君は、今日も常 夏の国で汗を流している。リタイアのロングステイといったところだ。但し、彼の奥さんは東京、娘さんはパリである。羨ましい人生航路である。

 2004年時で、90歳以上の日本人は100万人を突破した。男性の平均年齢は78.36歳、女性で85.33歳だそうだ。積極的に命を延ばすには、カロリー制限が有効だという。ネズミの筋肉を調べると、普通 に餌を食べたマウスは老化とともにDNAが壊れ、エネルギー代謝も下がる。カロリー制限したマウスには、そうした現象が見られなかったのだ。魚もネズミもダイエットすると寿命が1.4倍から2倍近く延びるそうだ。船の上では、早朝から夜食まで7食が用意されている。夕食の豪華さに、昼食を抜いてカロリー制限しようとする人が多い。
 飛鳥で昨年世界一周したとい う独り乗りの男性が朝食で隣り合わせた。「飛鳥では太ってしまったので、今回は乗船前に2kg落としてきましてね、朝食は和食の海苔に納豆、洋食のヨーグルトにサラダを組み合わせてカロリー制限します」と。果 たして2kgほどでは、にっぽん丸の美食を無視できるだろうか。

 来年、団塊の世代が定年を迎える。博報堂生活総合研究所(略して生総研)の元所長・関沢英彦君によると、4つの「フ」が消費市場を左右するという。「サイフ」退職金の運用であり、「腑(つまり胃袋)」脂っこい欧米型の食事をどう切り替えるか。「ワイフ」男がウチ帰りをするときの妻の対応次第だ。「抱負」したいこと探しを探せるかどうかだ。いささか、苦しい「フ」並べではあるが、間違いとはいえない。この世代は、日経新聞の「愛ルケ」を連載した渡辺淳一が命名した「プラチナ世代」である。
 ただ、彼らに向けて「熟年離婚」という新しい言葉も生 まれた。2007年以降に年金分割の新制度が施行される。4月1日以降に離婚が成立すれば、婚姻期間中の夫の報酬比例年金の最大50%を妻が受け取れるというもの。夫が死亡後でも、妻は生きている限り受け取れるのだ。いまが、嵐の前の静けさだと言われている所以である。TVドラマも「夫婦」(TBS)では黒木瞳と田村正和が、またずばりタイトルの「熟年離婚」(テレビ朝日)では渡哲也と松阪慶子が演じて、世の夫婦に警告を発信した。そのせいか、近頃、男の料理教室がやたらに盛況だそうだ。これまでの「風呂、飯、寝る」が通 じなくなるからだ。
 そこへいくと、この船の中は、夫婦仲を修復するのには都合が良い。それぞれの誕生日や結婚記念日を、船客と共に祝い合うセレモニーがある。何組かの夫婦を見比べて、己の姿を考える。話の通 じる同年生同士でも住む場所は違うから現実感から離れられる、いわば非日常の世界で互いの経験を教え合えるから素直になれる。

 定年後に夫婦で楽しみたいことは、夫、妻とも国内・海外旅行が1位 、2位(博報堂エルダービジネス推進室調査)だったそうだ。日経流通新聞によれば、前向きなアクティブシニアと称される60代の関心は、やはり旅行がダントツで、海外旅行経験者は既に87.4%もあり、10日間の海外旅行なら50万円以上支払ってもいいと答えたのが35%もいた。渡航が自由になった1964年、海外旅行者は約12万人だった。70年になってジャンボジェット機が飛び、円高もあって、20年後には1000万人を超えた。
 団塊の世代は、形を壊すことから始まったと直木賞作家の藤田宜永が言う。演歌よりロック、演劇はアングラ、ファッションはジーンズで、「友達夫婦」のスタートだった。従って、今後の市場は、「二人単位 」のサービス商品の開発が求められる。さしずめ、「銀婚旅行」がアラウンザ・ワールド・クルーズとなれば、僕の書いた本(「思い切って世界一周」)は、ターゲットへの参考書となる。嬉しいことに、船内で4組のご夫婦に声を掛けられた。「読んで私たちも思い切りました!」こう言われて、こちらが感激してしまっている。

 日本旅行業協会は、今年を「クルーズ年」として、2010年までに現在の3倍の50万人が目標という。米国籍だった「クリスタル・ハーモニー」を改造した「飛鳥U」は620名を乗せて、4月4日に横浜から出港した。翌5日には、ピースボートが、翌々日の6日には、にっぽん丸がそれぞれ世界一周のクルーズに日本を出航した。日本の客船が3隻、南シナ海を順次南下しているのだ。
 海外旅行では広い空港や慣れないホテルで事故や事件が多いが、大半を船の上で過ごすクルーズは、盗難や事故が少ない。その上、毎日の教室やゲームで互いのコミュニケーションも深くなり、下船しての行動も比較的連れだって動く人が多い。出港時間に遅れれば、何便も飛んでいる空路と違い、次の寄港地まで追いかける訳にもいかない。だから時間が守られる。こうした理由からしても、シニアの旅でクルーズに勝る安全なものは他になかろう。

 あと、幾たび桜を見られるだろうか、あと幾たび船旅が楽しめるのだろうか。

『人生の時計は、一度しかネジを巻かない。その針がいつ止まるか、遅れるか、それとも、もっと早くか、誰も知らない。今だけがあなたの時間だ。生きよ、愛せよ、心をつくして働け。明日があると思ってはならない。何故なら、その時、人生の時計は、止まっているかもしれないから』(山田俊夫「生きがいのある人生」)

20カ国26港の旅。1週間をかけて、まず最初の寄港地、シンガポールに着岸した。海水温度は30℃、湿度89%、体感温度32℃。



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